TAIHEISHOUJYOU -Right
160cm ×360cm 1998年制作
TAIHEISHOUJYOU - Left
160cm ×360cm 1999年制作
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<物語の解説>
唐土(もろこし)・金山(かねきんざん)の麓、楊子(よおす)の里に 高風 と云うたいそう親孝行で評判の高い男が居ました。 高風はある夜、不思議な夢を見ました。
それは、楊子の市に出て酒を売ると、富貴の身分に成るというものでした。
夢のお告げ通りにすると、時の経つのと共に次第々々に富貴の身分と成りました。
また、不思議なことがありました。
市の立つ毎に店に来て酒を飲む者がいますが、その者はいくら飲んでも顔色が変わりません。 不審に思った高風はある日、名を尋ねたところ、「海中に住む猩々だ」と言い残して帰って行きました。
高風はある月の美しい夜、潯楊ノ江(じんようのえ)のほとりに出て、酒壷に菊ノ酒を満たして猩々を待ちました。
不老の薬水とも聴く、めでたい菊ノ酒を満たした杯に月が浮かぶように、猩々も水上に浮き上がり、友と逢うことに喜び、岸辺へとやって来ました。
「秋風が吹いたとしても、菊ノ酒を飲んでいれば少しも寒くはない」と、二人は酒を酌み交わしました。 空には月も星も隈無く輝いていました。
猩々は舞いを舞い、岸辺の芦の葉は猫のような音を奏で、波は鼓の調べを打つかのように響きます。 猩々は高風の心の素直なことを称え、『汲めども尽きぬ酒の壷』を与えます。その酒は万代までも汲んでも尽きず、と称えながら酒宴を続けて酒を酌み交わしました。
高風は、杯に映る月が入り江の彼方に傾くように足元がよろめき、酔いに身が倒れ臥すと、そのまま夢を見ました。
目が覚めた高風は、全てが夢の出来事かと思いましたが、そこには酒壷が残されてありました。
そしてその後は高風の家が永く栄えたと云う、たいそう目出度いことがありました。
唐土・金山 = 中国・江蘇省の楊子江沿岸の山
猩 々 = 想像上の生物 (オラウ―タンではありません)
潯楊の江 = 江西省・九江の古称
菊ノ酒 = 酒の美称
猩々の面の童顔は永遠の齢を表し、赤は酒の酔いと若さ・愛らしさを示します。
御酒の徳を連歌に合わせ、白楽天の詩の世界を潯楊の江に展開して、不老長寿を寿ぐ祝言の曲になっています。
「大瓶猩々」は「猩々」と同じ筋ですが、複数の猩々が登場して舞を見せるようになっています。 また、大瓶の作り物が登場します。
<作品によせて>
この大瓶猩々の作品は
『ホテルの広間の壁画を・・・』との依頼を受けて、私の希望で屏風に描かせて頂いたものです。
これだけ大きな屏風を扱うのは初めての
経験であり、新しい発見が幾つもありま
した。
先ず屏風の事ですが、基本的に屏風は受注生産です。 大きさを指定してオーダーします。
この屏風は部屋の床の間の大きさに合わせました。 また、屏風が出来あがるまで、約1年の時間を要しました。
本式の襖と同じく、屏風の中は木製の桟で出来ていて、その上に何層もの薄紙(和紙)が下張りされています。 そして単に手間を掛けるというだけでなく、日本の気候風土に順応させる為に四季(乾燥と湿潤)を体験させて造り上げます。 そうする事で保管さえきちんとしていれば、何十年、数百年を経ても反ったり歪んだりすることの無い屏風に成ります。何百年も経っている屏風が現代でも残っているのは、こうした仕組みに因ります。 古人の知恵は素晴らしいと、改めて感心します。 また、日本画の常用としての描き方ですと、絵を描いた紙を屏風に仕立てるのですが、私の場合は、出来上がった屏風の上に直接、いつもの作品制作同様に下塗りを何度も施した後に絵を描いていきます。 屏風が出来上るまでの間に、作品の構図・下絵を用意します。 絵が描き上がってから、周囲の緞子(大縁・小縁)の表具と、縁に漆塗りの桟の加工を施して出来あがりとなります。 一気に屏風を仕立てる方法とは違う為、職人さんにとっては私の仕事の進み具合とタイミングを計らなければならず、やり辛い面もあったことかと思います。
猩々にテーマを求めたのは、謡曲の内容が‘宴の席’に相応しい目出度く楽しいものであると云う事と、ホテルが在る因州(鳥取)地方の特色ある祭事に因るところが理由です。
因州地方の神社の祭礼では、全身真っ赤な出で立ちの”猩々”が行列の先頭を行く獅子の手綱を取る役をします。
〈特色ある〉と云うのは、この獅子舞が麒麟獅子という麒麟の姿をしているという事と、この猩々の出現です。 これはこの地方だけに見られるもので、私はテレビ番組を通じて、偶然、この特色ある伝承を目にする事ができました。
(番組の内容は鳥取市の賀露(かろ)神社の祭事)
早速、ホテルのスタッフの方にご協力頂いて、資料をお借りしました。
地元の新聞社から出版されていた因州地方の祭事の模様を取材した本でしたが、丹念にそしてつぶさに調査されていて、民俗伝承の記録とも呼べる内容でした。
本では賀露神社沖の小島に大陸からの文物が流れ着いた様子などが記されてありました。
古代、日本海沿岸は大陸に対しての玄関口であり、出雲・但馬・丹後・若狭等で進んだ文化を背景にした遺跡が発見されていることかも明らかだと思います。 本では、主に麒麟獅子について詳しく調べてありましたが、古来よりこのスタイルであったかどうかという点は記録などに記されていない為不明な様です。
より確かな事は、徳川政権樹立後、藩主となった池田候の命により樗谿(おうちだに)に東照宮を造営し、獅子舞を行ったことが記録にあります。
この東照宮は日光を範とし、麒麟が沢山飾られています。
また、池田候は能楽をよく催されていたことで有名で、現代も樗谿神社で演能があるそうです。 お祭りの先頭を獅子が勤めるのは、西域(大陸)から伝播して来た伎楽劇のスタイルを踏襲しているものだと思われます。
伎楽は宗教祭事と関係が深く、祭事を始めるに当って、一般の民衆にも解り易く且つ楽しく「教え」を伝える役割を担っていました。
(伎楽は能楽の原点と考えられています)
獅子は祭事を行う場を清める役です。 狛犬と同じです。 伎楽劇では、鼻の高い西域の人の顔をかたどった胡人という登場人物が出てきますが、この胡人は酒に酔った態で赤ら顔をしています。
日本神話の猿田彦神も鼻が大きく赤い顔に描かれていることが多いのですが、この二点と能の猩々が融合した結果なのかもしれません。
作品の構図については、波を大胆に紋様化(デザイン化)して描いた事によってモダンで活き活きとした動きのある流れを出すことが出来ました。
このうねりのバランスが決まるまでが苦労でした。
四分の一、二分の一と下絵を拡大しつつ構図を何度もチェックしながら原寸大まで伸ばして描いていきます。 下絵だけでも何枚も描きました。
サイト掲載の画像では解り辛いでしょうが、波は藍色と銀泥で描いています。
色のメリハリをキッパリと出すため、何度も塗り重ねをします。
金色の部分(雲金)は自分で本金箔を貼っています。
金箔貼りは屏風を床に寝かせて行いました。
厚さのある木材で屏風の周囲を囲う様に組み、その上に鉄材のレールを橋状に渡してトロッコの座面を載せ、移動可能な状態を造って作業しました。
(この作業機器は近くの小田技研さんが発案して作ってくれました。)
この屏風は面積が大きく金箔の枚数も多いため、かなりの時間を要しました。
その他の部分は屏風を立てて描いています。
描く作業が楽になるよう、コンパネ(建築作業)を用いて専用のイーゼルを自作しました。 下絵が終わった時点で家を転居することになり、時間的にも厳しい状態でしたが、新しい(当時の丹波の)アトリエの広い空間を持てたお蔭で、以後はスムーズに仕事が進みました。
屏風を納めた時のエピソードもあります。
絵画作品を観賞する時の光源が蛍光灯では良さが半減します。 特に赤の色は美しく発色しません。 そこで天井灯を消して、投光機を借りて照らすことにしたのですが、薄暗い部屋の中で金と赤の色が実に綺麗に映え、華やかで妖しいような何か異なる空間に足を踏み入れたかのような気分がしました。
日本の習慣「室礼(しつらい)」が活きていた頃は、屏風はその存在を最大限に活用されていました。 日常使用している部屋を「晴れの間」に変え、祭事やお客様の招待の空間に演出します。 屏風は平面でありながら、立て方で絵が立体のモノの様になります。
空間自体を変えてしまう力のあることを改めて実感しました。
お披露目の済んだ後、その場で会食となったのですが、盛り上がったことは言うまでもありません。
翌日、ホテルのスタッフの方が屏風をいたく気に入って感動されていたので、「屏風の造りは本式だから、三百年ぐらいはもちますよ」ということを話したところ、
「素敵ですね。百年後のこの屏風が楽しみですね。」との言。
これには、私の方が感動しました。
〈左隻〉が ホテル大山
〈右隻〉は 鳥取砂丘センターホテル にあります。
この二点は私にとっては大作と呼べる作品であり、代表作の一つになります。
このような仕事に巡り逢えたことは、私にとって非常に嬉しいことです。
多くの人に観賞して頂きたいと思っています。
機会がございましたら、是非ご覧になって下さい。
鳥取はこれから食とウインター・スポーツのシーズンを迎えます。
2002年 11月
新聞紙面は鳥取県の広報。
麒麟獅子がシンボルとして登場していて、なんだか嬉しい気分になりました。
初代鳥取藩主・池田光仲候は徳川家康の曾孫にあたります。外様でありながら、幕政への夢が大きかったそうです。因幡東照宮造営もそういった事情があるようです。
光仲候は岡山池田藩主を継ぐ身として誕生するのですが、幼少時に藩主である父・忠雄(ただかつ)を亡くし(1632年)、鳥取に国替えになります。
この忠雄候の時に起った刃傷事件(1630年)が、後に仇討として有名な「鍵屋の辻の決闘」(1634年)の発端です。戦乱の時代が過ぎ、戦の出番が無くなってしまった旗本達と「外様」と呼ばれながら地方行政を担う役割が与えられた大名の、勢力争いの構図が陰に見えます。
維新後は他所の大名家と同じく、鳥取藩主も財政が厳しく、美術工芸品のオークション(売り立て会)をしました。『能面800面が欧州に売られていった』そうです。ショックです。