『吉祥天ノ会』という名称は、淺山澄夫が東日本大震災をきっかけに描いた作品「吉祥天龍神図」とともに誕生しました。チャリテイー活動で集めた義援金の送金主の名称として使用したのが始まりです。(「吉祥天龍神図」作品誕生についてはこちらへ )
送金主を「能絵館」とすることに私は躊躇いがありました。淺山の想いに感じてチャリテイーに参加頂いた皆様の総意が反映された名称に、能絵館 (淺山) という個とは分けたいという思いに駆られて「吉祥天ノ会」と名付けました。 ( 淺山 圭子 )
東日本大震災をきっかけとして描いた「吉祥天龍神図」の作品、津波の害にも負けず残った一本の松の木、震災の前年に清水寺へ奉納した「田村」(能絵)・・・ そうした出来事から物語が生れました
淺山原作の詞章については こちらへ
義援金を送金した後、東日本大震災の出来事が風化されないにはどうすれば良いか…と淺山は考えるようになりました。物語を作って語り継ぐのが良いのではないか、自分は長年能に携わっているのだから能を作って毎年上演すれば良いのではないか ― そのような思いから新作能「吉祥天」は生まれました。
物語の冒頭に清水寺が出て来ます。「例年陸奥からたくさんの人が開山忌の法要に訪れますが、今年は津波被害の為に来られません…」といったくだりが出て来ますが、これは2011年5月23日の開山忌に実際に直面したことです。
清水寺は僧・賢心と坂上田村麻呂(旦那)によって開山されましたが、2011年は田村麻呂の1200年忌に当たり、この事を記念して前年 (
2010年11月22日 )
に能絵作品「田村」を奉納致しました。坂上田村麻呂は大和朝廷の征夷大将軍を務め、東北の蝦夷側から見れば敵方の将になるのですが、東北地方では毘沙門天と同一視され英雄として祀られている事例がたくさん見られます。また、毘沙門天の妃は吉祥天。吉祥天は海の泡から生まれたとされています。龍神については、この年のお正月に夢見した私のリクエストで描いたものです。実際に私達が体験した事柄をエッセンスにして盛り込んで物語を紡ぎ出しました。 (
淺山 圭子 )
― 物語のあらすじ ー
慶長16年10月28日 (1611年12月2日)、陸奥ノ国・三陸地方で(後に[慶長三陸地震]と呼ばれる)大地震に伴う大津波が起こり、多数の死者を含む多くの被災者を出しました。
翌年、都の清水寺では、例年通り開山忌(5月23日)に坂上田村麻呂公の供養が厳粛に執り行われました。 寺で修行中の僧侶は、陸奥ノ国から参拝に来ていた人から、陸奥三陸地方で起きた大惨事のことを聞き、心を痛めます。
田村麻呂公は蝦夷平定に赴いたことから陸奥ノ国と所縁が深く、普段は風光明美な景色の三陸の地も、公自らが建立した達谷の窟(たっこくのいわや=毘沙門堂)と離れていません。僧は大災害の犠牲者の鎮魂と、一日も早い復興を祈願する為に陸奥へ赴く決意を固めます。そして長旅の末に、陸奥ノ国・達谷の窟にたどり着きました。
田村麻呂公は蝦夷平定には観音のお導きと毘沙門天のご加護があったとして、清水寺に模した毘沙門堂を建立し、洛北の鞍馬寺より観請した108体の毘沙門天像を祀りました。僧が被災者の鎮魂と復興を祈祷していると、堂内の毘沙門天像から「浜辺に残った一本の松の木に参れ」という声が聞こえてきました。 不思議に思った僧が村民に松の木の事を尋ねると、三陸の高田の浜まで案内されます。 そして荒涼とした中に、一本の松の木だけが残っている様を見届けました。松の近くへ寄ってみますと、品のある清楚な乙女が周りを丁寧に掃き清めています。
僧が「なぜ、この松の木を清めておられるのか」と尋ねると、乙女は「この浜辺は美しい松原で覆われ、民は豊かな海の幸に恵まれながら暮らしておりました。 大津波では松原のお陰で多くの民が救われましたが、 幾度も寄せる波に松の木はさらわれてしまいました。 不思議にもたった一本、この松だけが耐えて残りました。 これは御仏のご加護に違いないと思い、大切にしているのです。」と答えます。 そして乙女は「経文を唱えて回向して頂ければ、今宵、奇瑞が見られるでしょう。」と僧に言い残して何処かへ消え失せてしまいました。
やがて陽が沈み、月明かりに照らされた松の木の下で僧が厳かに経を唱えていると、俄かに海面が黄金色に輝き、海中から鱗が桃色に輝く龍神が現われて空中に渦を巻き始めました。 暫くすると、再び泡立った波間から、眩(まばゆ)いばかりに光り輝く吉祥天が現われました。 吉祥天は優雅な舞を舞って見せ、除災・招福・豊穣の与願印を示しました。 そして左手に携えていた金色に輝く如意宝珠を海へ捧げ、御仏の加護を約束しました。 やがて夜明けの陽の輝きが増しだすと、吉祥天と龍神は波間へ消えて行きました。
僧はこの奇瑞に感涙し、陸奥の地の一日も早い復興を願って一層声高らかに経を唱えるのでした。
創作 : 淺山 澄夫
― あとがき ー
新作能の時代設定は慶長三陸地震(江戸時代初期)1611年にしました。
この度(2011年)の東日本大震災はそれから400年後に起り、田村麻呂公の没後から数えると1200年後になります。
私事になりますが、2010年の晩秋に、来たる千二百年忌(2011年)を記念して清水寺へ能絵「田村」をお納めしました。
その際に、毎年開山忌(田村麻呂公の命日)には東北からたくさんの方がお見えになると伺いました。
京都の人よりも、東北の人々の方が田村麻呂公を身近に感じておられる様子です。
能楽の「田村」は公を主人公に、清水寺の縁起と生前の公の勇姿を物語る内容です。
能絵「田村」は、私が京都へ拠点を移した際に描いた作品でした。
私自身、不思議な縁を感じています。 淺山 澄夫
『未だ完成していない新作能「吉祥天」ですが、舞姿を
想像して能絵作品の「吉祥天」を描き上げたところです。』
― 絵師・淺山 澄夫 (2014年 弥生)
「吉祥天」は淺山が亡くなる10ヶ月程前に描きあげた作品です。未だ見ぬ演能の舞姿を夢見て、たいそう楽しそうに描いていました。とても気が乗っていて、2作を連作したほどです。2作の相違点は、浜の波打ち際の位置です。
能装束は、こちらも乗って2点続けて描いた「箱崎」の神宮皇后のものを用いています。当初はデザインすると云っておりましたが、そこまで時間をかけるのを惜しんだ様子です。何処かに逸る気持ちがあったのかも知れません。
東日本大震災、とりわけ津波害は彼にとっては衝撃的な惨事でした。「吉祥天龍神図」を描き、それを基に新作能を作ることへとつながる働きは、自分自身の心の救いを求めていたからなのかも知れません。
「吉祥天」の詞章を書上げた後は、なんとか演能実現へと努力して参りましたが、実現化させることは適いませんでした。そして自らの死を自覚した際に、演能化のことを『吉祥天ノ会』に託して逝きました。(吉祥天ノ会=私、淺山圭子とE女史が主体)
演能にあたっては、謡、節付け、舞の作り込み等の作業を経て能としての形が整います。また、舞台を催すための資金や人材も必要です。解消すべき課題は未だ山積み状態です。
淺山は被災5回忌での舞台を望んでいましたが間に合いませんでした。7回忌にも難しいと言えるでしょう。何時になるか解りませんが、何時の日か一本松の下で吉祥天が舞われる姿を皆様にお目にかけたいと私も望んでいます。 ― 淺山 圭子 (2017年 文月)
この「吉祥天龍神図」の作品を基にして、版画を制作して義援金を作る為の頒布会を行いました。(2011年と2013年)
2017年現在、アーカイバル版画「吉祥天龍神図」は、絵師・淺山澄夫のサイン入り作品の在庫が無くなりました故、一旦、販売を休止致しました。 2018年4月、絵のサイズを縮小したリニューアル版として新たに刊行しています。