新作能「吉祥天」詞章


淺山澄夫・作 新作能「吉祥天」詞章

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 吉祥天(きっしょうてん)  

                                                   ―  鎮 魂  ―

陸前高田の奇跡の一本松に寄せて

 

【間狂言の口上】時は慶長十六年三月十一日、陽春の光長閑(のどけ)陸奥(むつの)(くに)人知の及ばぬ未曾有の大地震が発生致し候。 寸刻の後、(にわ)かに海原盛り上がり、その山の如き大津波高さ百尺余りなり、風光明美、漁場豊かなる浜松原を撃ち襲い、村落人々(ことごと)呑みこみ奪い(さら)われし候也。 げに恐ろしけるかな大津波。 げに恐ろしけるかな大津波。  天災はかくも無情に人の営み打ち崩し、(はかな)き現世修羅場の極み耐えがたく、また行く末も忍びがたし 生き残れし村民漁民して郷土再起復興(ただ)ただ祈る日々。

 

只今より この能の次第は陸奥国の復興と、希望のしるしと祈念して陸前高田の浜に生き残りし奇跡の一本松。  人々が語り継ぎたる其の奇特の物語にて候。 陸奥国、陸前高田の白砂青松、松原に在りし七万本の松の木、かの恐ろしき大津波に悉く押し流され跡形もなく成り果てし候也。 しかしながら失せ給いし陸前高田の松原に、ただ一本の松の木が無慈悲なる大津波にも耐えしのびて生き残りし候。 只今も陸前高田の民に祀られし奇跡の一本松。  その奇特なる、霊験あらたかな「奇跡の一本松」に(まつ)わる物語 とくとご観覧候へ。

 

前場「事ノ次第」

 

[ワキ、ワキツレ] 

 

「さて、此処は風薫る緑爽やかなる(みやこ)、東山山麓清水寺の田村堂にて候。 今まさに、この寺創建の征夷大将軍坂上田村麻呂公の八百年忌、祈念法要を奉らんとするところなり。  祈念法要を奉らんとするところなり。」

 

〈ナノリ〉[ワキ]

 

「そもそも是は清水寺に使え奉る僧にて候。 さても征夷大将軍坂上田村麻呂公の八百年忌の法要を執り行わんとする所、しかしながら永年この日に詣で来たる陸奥の参拝者達、おん年は余りにも姿少なく候にて、 如何なるかその訳を尋ねてみんとするなり。」

 

[ワキ]

 

「如何にある。 この度の田村麻呂公八百年忌の祈念法要に、参拝せし陸奥の民少なきことの由を、聞かせめしと尋ね申し候。」

 

[アイ]

 

「問われて応える悲しき次第、 問われて応える悲しき次第、 暫く聞し召せと存じ申し候。」

 

「梅花ほころぶ春を迎えしころ、我らが住まい致す陸奥国一帯に、げに恐ろしき地震あり。 すこぶる長く大地の揺れたる様は世の常ならず。 山は崩れて河を埋み、海傾きて、陸地をひたせり。 暫らくして常は静かなる海原の彼方より、山の如く現れし大津波、 浜に向かって襲い来りて候。 我らの住まいする村落もろともに、村民漁民たち悉く大津波に呑みこまれ海の藻屑となりにけり。  海の藻屑となりにけり。」 

 

[アイ]

 

「生き残れし我ら村民も家門(いえかど)家族(ともがら)失ひて候 余りに無慈悲な天の所業に心虚しうなり果てし候。 (はかな)くも、亡くなり給いし御霊(みたま)の法要も未だ果せぬ次第なり。 唯ただ悲しき有り様に泣き暮れて、やがて涙も枯れ果てし候也。 我ら生き残れし陸奥の民、せめてもと祈る想いを携えて、(えに)し深き清水寺へと長き旅路乗り越えて、辿り着きて候なり。 この度の田村麻呂公八百年忌の祈念法要に参詣せんと参り候。 儚くもかの大津波に攫われ給いし御魂(みたま)の鎮魂法要を、 かの地にて執り行い給うとの請願を申す次第なり。  請願申す次第なり。  請願申す次第なり。」

 

 [地謡] [ワキ]

 

「そは、げに恐ろしき次第なり、 げに恐ろしき次第なり。 慣れ親しき村民の行方も知れず、失せし御霊の儚さよ、 悲しき思い聞かせられ哀れなる、 落涙の流れ止まらず。  聞きし者、 皆落涙の流れ止まらず。」

 

[ワキ]

 

「我等が僧侶これより直ちに陸奥に赴き参らん程に、 案内(あない)願い候。」 

 

「陸奥国平泉には、征夷大将軍坂上田村麻呂公が建立奉りたる(たっ)(こく)(いわや)ありて京の鞍馬寺より勧請せし百八体の毘沙門天を祀りし。 毘沙門堂に先ずは参らんとぞ存ず。」

 

[地謡]

 

「京より一月ばかり。 はるか海路山路の旅の末、ようよう、陸奥の国、達谷の窟、毘沙門堂に着きにけり。  毘沙門堂に着きにけり。 毘沙門堂に着きにけり。」

 

[地謡]

 

「ここは奥州藤原の郷、仏国浄土の聖地なり。 これより征夷大将軍坂上田村麻呂公勧請の毘沙門天 鎮座まします毘沙門堂にて、 鎮魂法要執り行うなり。  鎮魂法要執り行うなり。」

 

[ワキ]

 

「我等は京より はせ参りし清水寺の僧にて候。 この度の大地震大津波の犠牲となりし(ともがら)(たち)御霊の鎮魂法要営まんとするなり。」 

 

「南無大慈大悲毘沙門天。 南無大慈大悲毘沙門天。  南無田村大将軍、  南無田村大将軍。 オン ベイシラ マンダヤ ソワカ オン ベイシラ マンダヤ ソワカ。」

 

[地謡] 

 

「風()やかに青葉の松に藤の花。 陸奥の郷、仏国浄土平泉の郷、山川(やまかわ)草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)なり、 時の流れの行く末に祈り参らせ儚き御魂、只今は鎮魂供養執り行い奉らう毘沙門天。 声明聞し召せと声合わせ、内鳴り響く毘沙門堂。 内鳴り響く毘沙門堂。」 程なくて、何処より聞こえる声ありて候、 何処より聞こえる声ありて候。  其の御言葉、「誰かある、心して陸前高田の松原に参り候へ、 参り候へ。」  何処ともなく毘沙門天のお言葉響き渡るなり。 毘沙門天のお言葉響き渡るなり。

 

[ワキ]

 

「やれ、ありがたや毘沙門天。 やれ、ありがたや毘沙門天。 奇瑞の兆し賜りて、陸前高田の松原へ直ちに案内申し願い候。 直ちに案内申し願い候。」

 

[間狂言の口上]

 

この地は奥州藤原三代が浄土実現を成し遂げんと、現世佛国として平安と豊穣もたらせ給う浄土なり。 (いにしえ)先住の民、蝦夷アテルイ達住む処。 平和な風土でありし。 やがて、桓武の勅により征夷大将軍坂上田村麻呂帝の国土として平定せしめし陸奥(むつの)(くに) 其の(のち)征夷大将軍田村麻呂戦勝記念、 蝦夷アテルイ達の供養にと この達谷の窟に毘沙門堂を建て奉り。  (みやこ)洛北鞍馬寺より勧請した百八体の毘沙門天像お祀り致し候なり。 それより後は陸奥の民等の崇敬を得て盛りなり。 今も参詣する民の姿あと絶えず、この度の大地震にも耐えて残りし毘沙門堂。 毘沙門天様の功徳を賜り申さんと、参詣する人絶え間なく候。

 

[後場]

 

[ワキ]

 

「これは早、陸前高田の浜に着きにて候。 陸前高田の浜に着きにて候。」 

 

「かねてより聞き覚えし高田の松原は姿も見えず跡形もなし。 荒れ果てたる浜の松原姿無し。」 

 

「如何にあるらん気色かな、 のどけき陽光変わりなく澄み渡りたる天の下、人の営み立ち消えて、ものの哀れぞ悲しけれ、 ものの哀れぞ悲しけれ」。

 

「あれ不思議かな、不思議かな。 あれなる松と思しきは、まさに立ちたる一本の松の影。 そは、如何にぞ此処に在りたるや。 そは、如何にぞ此処に在りたるや。」

 

[陸奥の民]狂言方

 

「あれなるは、この陸前高田の松原に残りし一本の松にて候。 かの松は此の度の大地震大津波にも耐え忍び、生き残り給いし奇跡の一本松にて候。」 「我ら村民漁民も不思議なる思いして如何にして守らんと思案の次第程なりて候。」

 

[ワキ]

 

「そわ不思議かな、不思議かな。 かの一本松の下、二人の影と思しきが如何にせん。 誰なるか訊ねんと存ず。」

 

「いかに是なる翁に尋ね申すべきことの候ぞ。  この一本松の下、掃き清めたる由は何故なるか。 聞かせばやと存じ候。」 「また、この一本松残れし謂れを尋ねばやと存じ候。」

 

[前ツレ] 老人

 

「掃き清めたる一本松は古より在りし(よう)()の松にて候、 影向の松にて候。」 「天より神下り給ひし 依代(よりしろ)の松にて候なり 白砂青松高田の松原の、守り栄えし山川草木国土悉皆成仏浄土の郷にて、この松こそ大事けれ。 この郷に行く末長く守り給ひけれ。 行く末長く守り給ひけれ。」 

 

[前シテ] 高貴な夫人

 

「願わくは我らが申し渡さん(ことわり)を、聞しめせと申す也。」 「今宵、この一本松の下にて、鎮魂法要執り行ない給われば、かならずや、奇特を示し申そうと存ず。」

 

[地謡]

 

やれ、不思議なる気色(きしょく)にて やれ、不思議なる気色にて、 やがて「我は人にはあらず、吉祥天なるや」 と申し述べ、伴の翁も海中に入らせ給ひし白波の、 立ち返り 「我は中津(なかつ)(くに)の守護、百々(もも)乃龍神」 と言ひ捨てて、 瞬く間にも白波に入らせ給ひけり。  白波に入らせ給ひけり。」

 

「中入来序」

 

[地謡]「クセ」

 

「諸尊諸仏の守りし極楽浄土の陸奥の郷、今宵、此の度の大地震大津波に奪われし御魂と衆生(しゅじょう)の除災招福祈願せしめんと 奇跡の一本、松の下。 皆一同に声合わせ、月冴え渡る海原に、 聞こしめせと(とむら)う声明の 祈り(とな)ひし魂鎮(たましず)め。 祈り唱えひし魂鎮(たましず)め。」

 

出端「キザシグリ」

 

これは陸前高田の浜、日月(じつげつ)の光に一本 日月の光に輝く一本松。  煌めく波間より飛び出でたるは百々乃龍神 百々乃龍神。 現われ出でたる百々乃龍神。  天に百、地に百の恵みの力合わせ持ち、古に伊耶那(いざな)(ぎの)(みこと)を救いし如く、葦原の中津(なかつ)(くに)の衆生を救わんと、現われ出でたる百々乃龍神、意富加牟(おほかむ)()(みの)(みこと)の化身なり。 やがて虹色に光輝く海の泡より現れ(いで)し吉祥天 美目麗しき吉祥天。 その御手に捧げる御珠は金色(こんじき)輝く如意(にょい)宝珠(ほうじゅ) 声明に合い和して舞い給ひしは  有難き吉祥天の神神楽。  有難き吉祥天の神神楽。

 

[後シテ] 吉祥天

 

「そもそも是は日の本の衆生守りて、 海山川治める吉祥天とは我が事なり。」 「この度の未曾有の大津波、(はかな)くも失ひいし御霊に捧げる如意宝珠。 祀りて祈り給えれば 是より再び穏やかなる浄土となり候。 心して祈り給えと申す也。」

 

[ノリ地]

 

虚空に妙音響き渡り、(かたじけな)くも吉祥天、百々乃龍神伴いて静かに舞い()給いて銀色七色に光り輝く波しぶき撒き散らし、 除災招福の祈願せしめんと。 「もとより衆上、済度の誓い。 もとより衆生、済度の誓い。」  様々(さまざま)なれば吉祥天の功徳にて、鎮めし御霊と衆生の所願を叶えせしめんと、無施畏成願の印結び満願成就干満(かんまん)塩土(しおつち)印とて、授かり給いし如意宝珠

 

[ワキ] 

 

「かたじけなくも祀り申さん如意宝珠。 この一本松の下。 奇跡の一本松。 祀り申さん如意宝珠。」

 

[地謡]

 

「ようよう陽の明け渡る海原に、奇瑞示し給いし吉祥天、海神守護の百々乃龍神、 浄土の誓ひ申し述べ  浄土の誓ひ申し述べ。 祈る間に夜明けの海に共々消え入り給ふなり。 声和して祈り給いし僧達の、終わりも知れず声明の 響き渡らん諸念仏、 大海原に響き渡らせ給へ朗々と  渡らせ給へ朗々と」。

 

[ワキ] [地謡]

 

南無吉祥摩(なむきちじょうま)()宝生(ほうしょう)如来(にょらい) オン マカ シリエイ ソワカ。 南無吉祥摩尼宝生如来、オン マカ シリエイ ソワカ。 南無吉祥摩尼宝生如来、 オン マカ シリエイ ソワカ ・・・・ 」

 

 

                                                               ― 完

 

                                                                                          作 ・ 浅山 澄夫

 


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演出覚書

 

新作能 「吉祥天」 演出覚書

 

 

 

場景   「前場」京都東山・清水寺、田村堂の前

             五月二十三日・田村麻呂公八百年忌、祈念法要の日

             その一月後、6月末頃、陸奥国(奥州)平泉の達谷の窟・毘沙門堂内

 

       「後場」陸奥国・陸前高田(現在の陸前高田市)奇跡の一本松の下

 

人物   前シテ:郷の高貴な婦人

       前ツレ:父尉

       後シテ:吉祥天 (装束は古代中国の貴婦人着用の衣装デザイン、鬘は特殊髪形)

       後ツレ:百々(もも)(がみ)/百々乃龍神 (意富加牟豆美命=大神(おおかむ)(ずみの)(かみ)とも表記する)

                 清水寺の龍生会・青龍の特殊演出?

       ワキ:清水寺の高僧

       ワキヅレ:清水寺の僧侶

       間狂言:語り部

 

作り物  「奇跡の一本松」後場に、舞台正面先に設置、松の前に祭壇棚設置

 

照明  特殊演出効果の照明装置設置

 

   達谷の窟・毘沙門堂の表記では『真言は多聞天』となっているが、これは正来、多聞天と毘沙門天は同一である為、本作では毘沙門天の名称に統一することにした

 

百々乃龍神とは「アメツチの恵み」の象徴   天の恵み(知恵)+地の恵み(知恵)を併せ持つ  百(たくさん)を双つで百々(モモ)と云う

本作(謡曲)を創造するきっかけとなり、啓示を受けて描くことになった絵画作品『吉祥天龍神図』の中では、鱗を桃色に表現している

「古事記」の〈黄泉の国〉の条に登場する

      『イザナギノ命が亡き妻・イザナミノ命を黄泉の国から連れ戻そうとして失敗し、八柱の雷神と黄泉軍に追われる。地上との境にある黄泉(よもつ)

              比良坂(ひらさか)の麓まで逃げてきた時に、そこに生えていた桃の実を三個取って投げつけると、雷神と黄泉軍は撤退した。その功績により桃の実は「意              富加牟豆美命」の神名を授けられる。そして、「お前が私を助けたように、葦原の中津国(地上世界)のあらゆる生ある人々が苦しみに落ち、悲              しみ悩む時に助けてやってくれ。」と命じられた。』

 

実際の【慶長三陸地震】と呼ばれる震災は、慶長十六年十月二十八日(西暦千六百十一年十二月二日)に発生しているが、この度起った東日本大震災(平成二十三年(二千十一年)三月十一日発生)の鎮魂の為に創作した能である故、物語の中では三月十一日にあえて設定した次第である

二千十三年卯月   創作者・淺山 澄夫

 


詞章制作にあたっての参考資料

 

【間狂言の物語】  平安の始め、桓武天皇から蝦夷の国平定の勅を得て蝦夷征伐を成し遂げた田村麻呂は、この戦勝は毘沙門天様のお力の賜として、奥州平泉の達谷の窟に京都鞍馬寺で勧請した108体の毘沙門を祀ります。

清水寺の舞台をまねた毘沙門堂を造営したいきさつや、蝦夷征伐におけるアテルイとの戦や和睦のエピソード、また、後には田村麻呂の化身が毘沙門天として崇められたことなどを語ります。 奥州平泉の地はかつて藤原氏が浄土の世界を祈念して建てた中尊寺、毛越寺などが点在する「平安の里」でもあります。

※因みに、田村麻呂は811年に京都山科で52歳で亡くなり、1611年の大震災は没後800年に当たります。

2011年は田村麻呂の没後1200年に当たります。 そしてこの度(2011年3月11日)の東日本大震災は1611年の大津波の日から丁度、400年目に成ります。 吉祥天は毘沙門天の妃になります。

【達谷窟毘沙門堂】概要

達谷窟毘沙門堂は坂上田村麻呂がアテルイなど蝦夷討伐に勝利した際、毘沙門天への戦勝祈願によるものと感じ、この地に建立したものと伝えられています。 その後も、前九年や後三年合戦で源頼義、義家親子が戦勝祈願し寺領を寄進し、藤原三代は堂宇を再建しています。 中世に入ると周辺を支配した葛西氏の崇敬社となり手厚く庇 護され、近世では伊達藩が毘沙門堂を再建しています。 建物は清水寺を模したと言われ舞台のような構成になっていて岸壁側の外壁は無く、壁には岩肌が直接見 られます。 現在の建物は昭和21年の火災によって焼失後再建されたものですが、当時の雰囲気は十分に感じ取る事は出来ます。(平泉町観光案内より)

 

国指定文化財等データベース(文化庁)より>

達谷窟は岩手県南部奥州藤原氏拠点平泉南西約6km位置する。 北上川支流である大田川沿いの谷を西にさかのぼると、谷の分岐点となる丘陵尾根先端部に現在の達谷西光寺境内がある。

境内西側には、東西長約150m、最大標高差約35mの岸壁があり、その下部岩屋に懸造の窟毘沙門堂が造られている。 この西側岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来いわれる大きな磨崖仏が刻まれている。

これらの岸壁中心にした建物磨崖仏が達谷窟を象徴するものであり、現在でも達谷西光寺境内往時面影をとどめている。
 『
吾妻鏡文治5年(1189)9月28日によれば源頼朝平泉攻め滅ぼした後、鎌倉への帰路に「田谷窟」に立ち寄ったとされる。 これが史料上のである。 また、同条によれば、この岩屋坂上田村麻呂当地攻めた際、蝦夷要塞として使っていたもので、のちに田村麻呂がこの前に多聞天像を安置した九間四面精舎を建てて西光寺と号したという。 位置から見てこの岩屋当時幹線道路である「奥大道」の経路に面していたことが推測される。
毘沙門堂は達谷西光寺境内にあるが、西光寺はその別当であり、両者厳密に区別されていた。

毘沙門堂近世初期建物昭和21年焼失し、昭和36年再建されて今日至っている。

この南側に蝦蟇が池があり、その中島弁天堂が建っている。 昭和63年平泉町教育委員会が窟毘沙門堂前にトレンチ設定して発掘調査したところ、東西延び石組み確認された。 これは川原石積み上げた池の護岸考えられ、大量の「かわらけ」(師器皿)が出土した。 かわらけ柳之御所遺など平泉中枢部で出土するものと同じく12世紀後半比定される。 この成果から考えると、現在の蝦蟇が池は藤原氏時代までさかのぼり仏堂前面に池が伴うという浄土庭園通じ空間構成形成されていたと考えられる
毘沙門堂東側には現在の西光寺本堂金堂不動堂などがある。 さらにその南東側の「ようげ」と称される地の背後尾根には空堀確認され、中世要害推定される。 達谷窟は、中世には窟毘沙門堂中心周辺広く多数の子院が分布していたことが知られるが、近世以降別当西光寺と脇院鏡學院を残して退転した。

しかし、達谷窟としてその後広く信仰対象となってきた。
このように達谷窟は、藤原氏時代から象徴的岸壁岩屋仏堂造り、その前面に池を伴う有力な寺院であり、中世には周辺子院を有していた。 したがって、平泉における宗教施設実態理解する上でも欠くことのできない重要な意義をもっている。 よって、史跡指定し、保護を図ろうとするものであ

 

浄土思想に普遍的価値 平泉世界遺産登録決定

 

河北新報 627()612分配信記事より

「平泉の文化遺産」(岩手県平泉町)の世界遺産登録が26日、パリで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会で正式に決まった。  2008年、日本の推薦遺産として初めて「登録延期」の決定を受けてから3年。東北初となる文化遺産登録の吉報が、千年に一度といわれる大震災の、その年にもたらされた。 前九年、後三年の役という大きな混乱を経て、12世紀の東北に奥州藤原氏が建設した「平泉」の理念とその遺構が、世界的かつ普遍的な価値を認められたことになる。 藤原氏の理念で登録推薦書のテーマにもなった「浄土思想」は、敵味方の区別なく、争乱によって倒れた犠牲者の霊を等しく慰める平和希求の心だ。「中尊寺建立供養願文」に象徴される。 大震災に見舞われた東北地方はいま、未曽有の被害から必死で立ち上がろうと努力している。 国内はもとより、世界中からさまざまな支援の手が差し伸べられる中、かつて東北の中心だった「平泉」が世界遺産に登録された。その意義について、地元のある歴史研究家は「歴史的災害をはね返すための歴史的必然」と言い表す。
震災からの復興と、くしくも時期が重なった世界遺産登録の持つ意味を、被災者を含め、藤原氏の思想を引き継ぐ東北住民一人一人がしっかり受け止め、着実な復興に向けた精神的支えとしたい。

 

浄瑠璃寺 (九体寺) 発行資料より