祇園祭の山や鉾には能から取材されたものがたくさんあります。 「芦刈山」、「白楽天山」、「橋弁慶山」、「木賊山」など、謡曲(能楽) のタイトルがそのまま付けられた山や鉾もあり、現在巡行している山や鉾32機のうちの約半数が、何らかの形で能楽と関連があります。
それらは、能から取材して山や鉾のテーマにしたと考えられていますが、中には逆に、日本の神話や伝説・中国の故事から取材して作られた山や鉾をヒントにして、創作された能もあるようです。
能を大成した世阿弥が、時の将軍・足利 義満に伴われて祇園御霊会を拝観したのが永和四年(1378年)であり、その頃、美意識として定着していた『風流』を取り入れた祭りの作り山が、すでに各種存在していた史実から考えられる事です。 応仁の乱前は、 世阿弥が能(戯曲の様式)を完成した時期でもあります。
※『風流』 ・・・ 平安時代は貴族階級の美意識を指し、中世ではその内容は「人目を引く趣向・華美なもの(祭礼の山車は代表格)」へと変化していきます ( ふりゅう と読みます)
ここでは、能との関わりが特に深く感じられる鉾や山を挙げてみました。
naginata
「長刀鉾」 下京区四条通烏丸東入長刀鉾町
「くじとらず」の別名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。 鉾の天辺を飾っ た「三条小鍛冶 宗近作」の『大長刀』が命名の由来です。
(謡曲「小鍛冶」では、一条天皇の命によって、この刀を造る様子が描かれています)
娘の病気平癒を 祈願して、宗近は名刀「小狐丸」を八坂神社に奉納しました。大永二年 (1522年)、都に疫病がはやり、長刀町でこの太刀を飾ったところ、疫病が退散したという謂れがあります。
(創建は1441年との説も)
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「芦刈山」 下京区綾小路西洞院西入芦刈山町
現存する最古の山であり、御神体・装束ともに古く、重要文化財に指定されています。
謡曲「芦刈」に 取材。
摂津の国・難波に住む夫婦は貧困が原因で別れることになりました。
妻は都へ出て宮仕えし、やがて裕福になりますが、分かれた夫のことが気にかかり、探すことにしました。 やがて、身をやつし難波の浦で芦を売る老翁の姿となった夫と再会します。夫はその身を恥じて逃げようとしますが、妻は優しく迎えるのでした。
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「菊水鉾」 中京区室町四条上菊水鉾町
町内に古くからある井戸・菊水井(きくすいのい)に因み、稚児人形の体は謡曲「菊慈童」から着想されてます。鉾は明治維新の動乱で消失しましたが、昭和28年に復興しました。
謡曲「菊慈童」
魏の文帝の勅使が薬水を求めて山に入ったところ、一人の 少年に出会いました。聞けば少年は、700年前に王の枕を誤ってまたいだことが原因で山流しとなり、それから毎日、菊の葉に経を記し、その葉に溜まった露を飲んで過ごしていたところ、不老長生したと云うのです。 慈童はこの薬水を勅旨に献じました。
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「木賊山」 下京区仏光寺西洞院西入木賊山町
世阿弥作の謡曲「木賊」から着想されたもの。
山の御神体(人形)は、木賊刈の老翁 が、人買いにさらわれて生き別れとなった愛児を思いながら舞を舞う場面を表したものです。右手に鎌、左手に木賊を持っています。
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「岩戸山」 下京区新町通仏光寺下岩戸山町
記紀に記されている「国生み」、「天の岩戸開き」の神話を故事に持つ曳山。
鉾柱の代わりに松を立て、御神体(人形)を三体(伊弉諾尊・天照大神・手力雄命)飾ります。
謡曲「絵馬」よ り取材
天照大神 が岩戸にお隠れになって天地が常闇になった為、八百万の神々は安の河原に集まって対 策を練ることにしました。常世の国の尾鳴島を鳴かせ、500個の勾玉を鋳造して造り、天の香具山の榊を立てて、天鈿女命が舞を舞い、手力雄命が岩戸を引き開けたのでした。
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「黒主山」 中京区室町通三条下烏帽子屋町
謡曲「志賀」に因み、六歌仙の一人・大伴 黒主が志賀の桜を眺める様をテーマにしています。
杖をついた白髪の翁の人形は品格があり、山を飾る桜の造花は、粽と同様に戸口に挿すと悪事が入ってこないという、お守りです。 (大伴黒主=小野小町との歌争いで有名。)
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「鈴鹿山」 中京区烏丸通三条下場之町
伊勢国の山ノ神・鈴鹿権現(実は瀬織津姫尊)が悪鬼(盗賊)を退治したという故事に因みます。
謡曲「田村」では、このくだりが描かれていて、鉾の御神体も能の体をしています。(御神体の瀬織津姫尊は能「巴」の巴御前のような御姿です)
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「放下鉾」 中京区新町四条上小結棚町
鉾名は真木(しんぎ=鉾の中心を貫く木)の中程の「天王座」と呼ばれる処に、放下僧の像を祀ることに由来します。
放下僧( 僧侶の姿をした大道芸人・流れ者 )の体を装い、仇討を成し遂げた兄弟の様を描いた、謡曲「放下僧」に因みます。
鉾頭は日・月・ 星の三光が下界を照らす形を示す。長刀鉾と同じく、元は「生稚児」でしたが、現在は人形です。
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「保昌山」 下京区東洞院通松原上燈篭町
応仁の乱以前に起源を持ち、明治初年までは「花盗人山」と呼ばれていました。
謡曲「花盗人」 より取材
女官・和 泉式部に恋をした丹後守・平井保昌(やすまさ)は、式部に乞われるまま、宮中・南殿に忍び込んで、桜の枝を手折り、「花盗人とはいふとも、恋しき人の望みはかなへたり」と、無事に帰っていきました。能「花盗人」で は桜ですが、保昌山では梅となっています。
また、和泉式部といえば「梅」のイメージがあります。同じ世阿弥作の能「東北」では梅(和泉式部の化身とも)が主題です。 和泉式部歌集には
「おのが名は 花ぬす人と立てば立て ただ一枝は折りて帰らん」
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「橋弁慶山」 中京区蛸薬師通室町東入橋弁慶町
謡曲「橋弁慶」より取材
五条の橋の上で牛若丸と弁慶が闘った様を表しています。 牛若丸の人形は 橋の欄干・擬宝珠の上に、下駄履きの片足一本で立っている姿ですが、その下駄の歯・一枚のみで人形を支えている技術 の高さと躍動感 ある表現は、500年前の造形とは思えない素晴らしいものです。 『山籠・真松が無い』、山の上を舞台として見立てる、古の時代の風流の様式を残す山です。
かき山としては、唯一「くじとらず」でした。
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「役行者山」 中京区室町通三条上役行者町
役行者・一言主神・葛城神が御神体の山。
役行者が一言主神に命じて、葛城山と大峰山の間に石橋を架けた伝説に取材したものです。
能では「葛城」 にこのくだりが描かれています。
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「浄妙山」 中京区六角通烏丸西入骨屋町
平家物語にも描かれている、「宇治川の合戦」の源氏方の活躍を表しています。
三井寺の僧兵・ 井筒浄妙が橋桁を飛び越えて一番乗りをしようとした際、その頭を飛び越して一来法師が先陣を取ったという故事に基づきます。 浄妙坊 着用の鎧は室町時代のもので、重要文化財指定です。
謡曲「頼政」では、奮戦の甲斐なく負けてしまい、自害して亡霊となった源頼政が、旅の僧に戦の様子を物語る様が描かれています。
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「白楽天山」 下京区室町通綾小路白楽天町
唐の詩人・白楽天が西湖の老松に住む道林禅師を訪れて禅問答を繰り広げる場面を表している山です。
謡曲の「白楽天」では、勅命を受けた白楽天が渡来して来て、日本の知力を試すという物語になっています。
問答の相手は、筑紫の海上で出会う漁翁( 実は住吉明神の化身 )になっています。
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「北観音山」 中京区新町六角下六角町
「後の祭り」の巡行の先頭を行き、「上り観音」と呼ばれていました。 かつて( 室町~江戸後期 )は、南観音山と隔年交互に巡行していました。御神体は楊柳観音像と韋駄天立像。
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「南観音山」 中京区新町通錦小路下百足屋町
後の祭り」の最後尾を勤め、「下り観音」と呼ばれます。御神体は楊柳観音像と財善童子像。
いづれも、楊柳観音(観音懺法(せんぽう)に取材したものです。
観音懺法(観音経に基づき、観音菩薩をお迎えして懺悔する儀式)に因んでいて、柳の枝を飾ります。
(柳には厄除け(穢れを祓う)の意味が籠められていて) 能「朝長」では、この観音懺法の儀式のくだりがあり、独特の変調の太鼓の音色のみで表現されています。 それは、この謡曲のみに演出されるスタイルで、緊張感の際立つものです。
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「占出山」 中京区錦小路通室町西入占出山町
朝鮮征伐の際、神宮皇后が肥前の松浦にて鮎を釣上げて戦勝占いをした故事に由来します。
出兵の後、無事に皇子を出産されたことから、安産の守りとしての信仰を集めています。
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「船 鉾」 下京区新町通綾小路下船鉾町
(先の祭りの最後尾を勤めていたので「出陣の船鉾」と呼ばれました)
朝鮮征伐の際の 神宮皇后の勇姿をうたったものです。皇后の着ける面(能面の様式が確立する以前の形)は神面と呼ばれ、古来安産に関して奇瑞があると謂れがあります。
巡行の際は御神体に岩田帯を巻いています。御神体は皇后のほか、磯良・住吉・鹿島の神様三体。
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「大船鉾」 下京区新町通四条下市場町
(後の祭りの最後尾を勤め「凱旋の船鉾」と呼ばれていましたが、鉾を消失したため'休み山'に) 「船鉾」と同形 の鉾。
「船鉾」を神宮皇后の出陣のお姿、「大船鉾」は凱旋のお姿としていました。 同じく、安産の信仰を集めていました。
神宮皇后を主題にしたものです。近年復曲された 「箱崎」という能があります。「箱崎」は、朝 鮮征伐の帰路に、神宮皇后が戒・定・恵の三学の妙文(経)を箱に入れて松の下に埋めたという、箱崎宮の「筥崎の松」の由来に取材したものです。(史実は経ではなく、胞(えな))
<後記>
能楽はユネスコの無形文化遺産ですが、「祇園祭」においては、現在、無形遺産登録を目指しています。
この度、祇園祭について調べ直した事により、改めて我が国の文化の深さを思い知りました。
能だけでなく、様々な故事や神話をデータ・べースとして、脚色したり、演出したりして、古の都人は遊びを楽しんでいたようです。
お目出度い物語だけでなく、悲しい物語についても、その情を味わう事を通して、日本人は心を豊かにして
きたのではないかと、想像します。
特筆すべきは、様々な異国の神々、我々とは環境の違う地域の宗教の故事に関連した懸想品等も、大切に守り伝え、均しく敬ってきた姿は、人として美しいと感じます。
この点だけでも、世界遺産としての価値があると思います。
また、祭りに関ってきた人々が、このデータ・ベースになっている物語を見知っていたからこそ遊べた訳で、中世から今日まで綿々と続いてきたことは、本当に驚きです。
町衆の人が家(建物を指すだけでなく)や家業を引き継いできた事と同じように、このような文化も引継ぎ、大事に育んできた様子が伺い知れます。
幾多の戦争・大火・遷都といった「祭り」存続の危機は「祭り」そのもののパワーで乗り越えてきたようです。
古神道では、「祭り」は「祀 り」であり、人と人が纏わることでもあり、「政(まつりごと)」の言葉の由来です。
近い過去=この半世紀で、生活のあり様の変化とともに町の佇まいは激変しました。
京都だけでなく、国中同じ事が起きていると思いますが、文化のデータ・ベースであったものは、価値の無いもののように捨てられ、忘れ去られつつあるように感じ、寂しい限りです。
文化や伝統は博物館のケースの中に収めるものではなく、生活していく中で人が楽しむものだと思います。
お祭りの如く。
2009年 大暑
浅山 澄夫
ユネスコの無形文化遺産へは2009年の9月に登録されました。
また、2014年からは消失により永く絶えていた「大船鉾」が復興されて巡行に参加、かつて行われていたように、「前(さき)祭り」「後祭り」の2回に分けての巡行が復活されました。
その復活された巡行を取材した時の画像はこちら 前祭り ・ 後祭り
祇園祭りに関しては 八坂神社のサイト
また、山口・津和野へ出かけた際に、偶然遭遇したのが津和野の弥栄(やさか)神社の祇園祭りでした。
そこでは、本拠の京都では既に廃れてしまっていた「鷺舞神事」が行われ、少女達の鷺舞行列の愛らしさが印象に残っています。津和野町観光協会のサイト