能の物語の中にはたくさんの神様が登場します。 その物語の解説を簡単にまとめてみました。
能には日本という国土で生まれ培われてきた哲学が裏打ちされています かつて猿楽と呼ばれていた能が現代に伝えられている戯曲のスタイルへと洗練されたのは室町時代 の頃です。 当時は能の脚本(能本)も盛んに作られていました。 その中に登場する神様は、近代になって神道の方向性が再編される以前の形、日本各地の風土記 に見られる土着の神様の姿です。 それは実に多彩で大らかで勇壮、どこか人間味のある様は私に とってとても身近に、そして楽しく感じられるものです。 絵 師 ・ 浅山 澄夫
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「絵 馬」― 天照大神 2005年制作 P10号
伊勢の斎宮では、節分の夜になると扉に「絵馬」が懸けられます。
「白馬の絵馬」ならば日照りを、「黒馬の絵馬」であれば多雨を預言するのです。
ある年の暮、大炊帝(オオイノミカド)の勅使が伊勢神宮へ詣でましたが、 到着した日は節分でした。 そこに現われた老夫婦に勅使が絵馬の事を尋ねると、自分達がその絵馬を懸けるのだと云います。
姥は黒い絵馬を、翁は白い絵馬を持って懸け争いをしますが、雨も降らし日も照らして国土を豊かに万民快楽の世にしようと、結局、両方の絵馬を並べて懸けました。
そして、実は自分達は伊勢の二柱ノ神であると明かして消えて行きました。
夜が更けると天照大神が天鈿女命(アメノウズメノミコト)と手力雄命(テヂカラオノミコト)を従えて出現し、
舞を舞って「岩戸隠れ」の様子を再現して、勅使にお示しになられました。 ※ 旧暦では節分=大晦日
「岩 船」― 龍神 2012年制作 P12号
時の帝は摂津国(大阪)・住吉浦に市を開き、唐・高麗からの宝物を入手するよう宣旨を下されました。 勅使が住吉へ来てみると、言葉は日本語ながら唐人の姿をし、宝珠を載せた銀盤を持った不思議な童子が現れます。
童子は「めでたい御代を寿ぎにきた。 宝珠を君に捧げる。 天はこの代を讃えて宝物を岩船に積み、ここへ漕ぎ寄せるところだ。」 と言い、自分は岩船を漕ぐ天の探女(アマノサクメ)であると明かして消えていきました。
やがて、岩船を守護する龍神が現れ八大龍王を呼び寄せると、共に岩船の綱手を 取って岸に引き寄せました。 船に積まれた金銀宝珠は光輝いています。
「賀 茂」― 御祖ノ神 2009年制作・P10号
播州・室(室津)の神職は都の賀茂神社に参詣しました。
糺(タダス)ノ森・御手洗(ミタラシ)の瀬見の小川に新しい壇が築かれ、白木綿に白羽の矢が立ててありました。
神職が水汲みに来た里女に尋ねると「昔、秦氏女(ハタノウジメ)が朝夕、水を神前に手向けていると、川上から白羽の矢が流れ来て水桶に留まりました。
娘が矢を持ち帰り、軒に挿していたところ、懐妊して男児を産みました。
「その児と娘、矢で示された別雷神(ワケイカヅチノカミ)を賀茂三所ノ神と云うの
です。」 と、賀茂三社の縁起を語ります。 続いて、この川に因んだ和歌を詠み、自分はその神であると告げて消えてしまいました。 しばらくすると、天女の姿の御祖神(ミオヤノシン)が出現し、舞を舞いながら袖を
川面に浸して涼み取りました。 すると、稲光がして別雷神が現れ、雷を轟かして五穀豊穣を祝い、国土守護のご神徳を説くと、御祖ノ神は糺の森へ、別雷神は虚空へと去って行くのでした。
「賀 茂」― 別雷神 2000年制作・F15号
「竹生島」― 弁財天 2013年制作・P10号
延喜帝(醍醐天皇)に仕える朝臣(アソン)は竹生島弁財天へ参詣するため琵琶湖畔に来ました。 丁度、翁が若い女人を伴って舟を出していたので便船を頼みました。
翁が朝臣を神前に案内すると、伴の女人も付いて来ます。
朝臣が「この島は女人禁制」と不審がると、「弁財天は女神である」と翁は答え、
島の由来を語ります。 そして自分たちは人ではないと告げて女人は社殿の内へ、翁は波間へと消えて行きました。
やがて社殿が鳴動して、光り輝き、妙音とともに弁財天が現れて舞を舞います。
湖上には龍神が出現し、朝臣に金銀宝珠を捧げて 「弁財天と龍神は仏が衆生を救う為の形である」 と告げ、国土鎮護を約束して弁財天は社殿の中へ、龍神は湖水の中へと去って行きました。
「羽 衣」― 天人 1999年制作・F30号
能の「羽衣」は三保ノ松原(駿河湾)が舞台になっていますが、「天の羽衣」伝説は日本各地に伝わっています。
美しい「羽衣」を巡る、漁師とのやり取りの末に、最後は天人が羽衣を身に付けて舞いを舞いながら天空へと昇って行きます。
約束を交わす際の、天人が語る「疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」を聞いた漁師が、自身を恥じる場面があります。優美なだけでなく、品格の高さが感じられる、それが「羽衣」の人気の秘訣なのでしょう。
「養 老」― 山神 1987年制作・P10号
美濃国・本巣郡(モトスノコオリ)に霊泉が湧き出たという知らせを聞いた雄略天皇は、勅使を赴かせます。
一行は通りかかった父子に養老ノ滝の名のいわれを尋ねます。
父子は宣旨に感激して、親孝行の徳が報いられて霊泉が授けられたこと、飲むと心も勇み、老の養いになるので「養老」と名付けたことを述べ、勅使をその滝壷に案内します。 すべてを見聞した勅使はその奇特に心を打たれ、急ぎ帰って奏聞しようと喜んでいると、天から光が輝き、花が降り音楽が聞こえます。
土地の者が冷泉を飲んで若返る様を見せたあと、やがて養老の山神が出現します。
そして泰平の世を讃え、舞を舞って天上へと去って行きました。
「三 輪」― 三輪明神 1987年制作・P12号
三輪の山奥で修業中の僧・玄賓(ゲンピン)のもとには、毎夜、御水と樒(シキミ)を携さえて通ってくる女人がいました。
ある夜のこと、女人は「秋の夜寒に衣を一枚下さい」と頼みます。
玄賓が衣を与え何処から来ているのかと問いただすと、「三輪の山元。杉立つ門(カド)を印に訪ねなさい。」 と言い残して消えて行きました。
玄賓が訪ねて行くと、杉の枝には与えたはずの衣が掛かっており、和歌が書かれています。
その歌を詠んでいると、杉の影から女姿の三輪明神が現れました。
明神は三輪の妻訪(ツマゴイ)神話や天の岩戸開きの様を物語り、神楽を奏して舞を舞い、空が白むと共に消えて行くのでした。
「龍 田」― 龍田明神 (龍田姫) 2007年制作・P10号
諸国を巡礼の僧は、南都(奈良)から河内國(大阪)へ
と進む途中に龍田明神へ参詣しました。手前の龍田川を渡ろうとすると一人の巫女が現われて、「龍田川 紅葉乱れて 流るめり 渡らば錦 中や絶えなん」という古歌を詠んで引き止めます。 僧が「秋も過ぎて今は薄氷の張っている頃なのに」と言うと、
巫女は「龍田川 紅葉を閉づる 薄氷 渡らばそれも 中や絶えなん」という歌で答え、
別の道を案内します。 僧が、霜枯れの頃にも関わらず紅葉している樹を見て不審に思っていると、巫女は「紅葉は御神木であり、私は龍田姫の神霊である。」と名乗り、社殿の中へと消えて行きました。 夜が更け、僧が通夜を行っていると、龍田姫の神霊(女神)が現われました。 女神は龍田明神の由来を物語り、龍田山の風景を賛美し、神楽を奏すると、虚空へと昇って行きました。
「和布刈」― 龍神 2009年制作・P15号
早鞆(ハヤトモ)明神(門司)の和布刈神事は毎年師走・晦日の寅ノ刻にとり行われています。 神官が神事に望もうとしていると、海女と漁翁が神前に供物を奉げています。 神官が問うと「昔、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)が豊玉姫のお産を垣間見たことから、海と陸との通い道が断たれたが、早鞆の神事の日は、神慮によって海蔵の宝も意のままになる」と話し、二人は「龍女と龍神である」と言い残し、海女は雲に乗り漁翁は波間へと消えました。
神事が始まると、松風の音と共に妙音が響きわたり龍女が現れて天女の舞を舞い、海からは龍神が現れ海底をうがちて潮を退け、海の道を開けました。 神官が松明を灯し、和布(わかめ)を鎌で刈ってもどると、暫らくして潮が満ち元の荒海となり、龍神は竜宮へと去って行きました。
「葛 城」― 一言主神 2001年制作・P12号
険しい山また山の道程を越えて、大和の葛城山に修行に来ていた 出羽・羽黒山の山伏は、降りしきる雪で前へ進めずにいたところ、標柴(シモト)を集めている里女と出会います。 「通いなれた私でさえ道に迷うような吹雪です。粗末な家ですが、今宵は私の処に泊まって下さい」と招かれるまま、山伏は一夜の宿を借りることにします。 山伏が後夜(ゴヤ・夜明け前)の勤行を始めようとすると、「実は私は葛城ノ神です。 昔、役ノ行者に命ぜられた岩橋を掛けなかった為に罰を受け、今も苦しんでいます。」と打ち明け、「私の為に加持祈祷をして欲しい。」と頼んで里女は岩橋の方へと消えて行きました。山伏が祈祷を始めると、紅葉した葛を冠に戴いた、女神姿の葛城ノ神が現れました。
女神は高天原の優雅な大和舞(神楽)を見せ、辺りが白々としてくる頃に岩戸の中へと隠れて行きました。
「翁」 2012年制作・F12号
「翁は能にして能にあらず」と云われるように、能の中では別格に扱われ、
神聖視されています。それは、鑑賞するための演劇としての“能”というよりも、天下泰平・国土安穏・五穀豊穣を祈る儀式的要素の強い、私達の祖先が親しんだシャーマニズムの形を色濃く残しているからです。
「翁」は他の能に比べて、色々と違った様式を有しています。
出演者は精進潔斎します。 演劇に出演するというよりも、神事に奉仕するという気構えで臨みます。 神の霊が降臨する影向(ヨウゴ)の松を背景に、面を付けることによって神と一体化した翁が、民衆に向かい福音を告げる、祝福の瞬間です。